噛む力は「一生の宝」
NPO法人健康情報推進機構理事長 元神奈川歯科大学教授  斎藤滋氏
日本人の食生活の変化で見逃してはならないのが、食べ物をあまり噛(か)まなくなったという点だ。現代の食生活には、ハンバーグなど噛まなくても口の中で崩れる軟らかい食べ物が過剰に取り入れられ、その結果、日本人の食事の咀嚼(そしゃく)回数は戦前の半分以下に激減している。この状況を私は「戦後の最大の忘れ物」と読んでいる。

「噛む」ことの効能は、食べ物を消化しやすいよう細かくするだけではない。噛むときの筋肉の動きや食感が脳に伝わると、満腹中枢が刺激されて「お腹がいっぱいになった」という感覚が生まれる。逆によく噛まずに食べるとなかなか満腹感が得られず、過食になりやすい。近年の肥満や生活習慣病の増加は、栄養の偏りや運動不足とともに、よく噛まない食べ方にも密接に関係している。

また噛むという行為は、脳の活性化にもつながることが最近明らかになってきた。私たち研究グループの実験では、噛むことによって記憶力に関与する脳の海馬が活性化され、高齢者ほどその傾向が顕著であることが確認できた。昔から歯の喪失は老化の始まりと言われるが、よく噛んで食べる食習慣は認知症(痴呆症)予防の効果が期待できると考えられる。また同様に、人間らしい感性や情緒をつかさどる右脳の前頭前野が、咀嚼によって活性化されるという事実も分かった。

食卓での会話は子どもの人格を育てる上で絶好の機会であることが、科学的に実証できたわけだ。

こうしたメカニズムが明らかになるよりもずっと前から、日本人は噛むことの大切さを十分知っていた。親は子どもに「よく噛んで食べなさい」としょっちゅう言い聞かせ、家庭の食卓では大人の考えや倫理観を教える「しつけ」が日常的に行なわれていた。しかし今やそうした食習慣は忘却の危機に瀕(ひん)している。今年度から「食育」が義務教育としてスタートしたが、栄養面とともによく噛んで食べる大切さを学習し、そして食事を介して先生と心や知性を通わせる機会にしていくことが極めて重要だ。そうした知識と体験が、子どもたちの“心”と“体”を守る「一生の宝」となる。

健全な食のために情報の咀嚼力を磨け
ジャーナリスト 池上彰氏
充実した食は健康な心身を形作り、それが人の暮らしや社会全体を充実させていく――。この自明とも言える原理を私たちは改めて認識する必要があるのではないか。バランスを欠いた食生活や運動不足によって日本の社会は、肥満の増加や体力の低下など、不健康な方向へと向かっている。

また最近は朝食を食べない子どもが増えている。朝食をきちんと食べている生徒ほど学業成績が良いという報告もあるように、正しい食生活は体力だけでなく気力や知力を養う上での基礎でもある。

一方で多くの人が健康に高い関心を持ち、メディアには健康に関する実にさまざまな情報があふれている。ただそれらを“断片的”にうのみするようでは、バランスの取れた食生活は期待できない。大切なのは、昔から言われているように「いろいろな食材をしっかり食べる」こと、そして食と健康の知識を正しく理解する「情報の咀嚼力」だ。

今の日本には国内外にさまざまな課題が山積している。社会の複雑な問題の解決には、人々の考え抜く知力、粘り強い気力、そして体力を総動員して取り組まなくてはならない。そのための基礎が食にあるという点を、私たちはしっかりと認識しなくてはならない。

Data&Facts
高まる子どもの肥満傾向
「肥満傾向」とは、性・年齢別ごとに身長別平均体重を求め、その平均体重を20%以上上回っていることを指している。肥満傾向児の割合はいずれの年齢も長期的に増加基調をたどっており、6〜12歳の間では年齢が高いほどその割合も多い。また過去からの増え方も同様で、30年ほどの間に、7歳で2.39ポイント、9歳は3.57ポイント、11歳は3.77ポイントそれぞれ増加している。

小学校低学年の場合は家庭の食事が中心だが、高学年になるほど塾通いのときの間食などが増えると思われる。そうした年代による食生活の違いが肥満の多さや増え方に影響しているのではないかと推察される。

豊かな食の一方で運動能力は低下

走力・全身持久力とも長期低下の傾向にある。男子小学生の50m走では、最近20年間で7歳の場合は4.4%、9歳で3.0%、11歳で1.0%タイムが落ちている。さらに13歳から測定されている持久走(男子・1500m)も、30年間で13歳では3.1%、16歳で4.8%、19歳では9.0%もタイムが落ちている。グラフでは男子のみのデータだが、女子についても同様に運動能力の低下傾向が認められる。

日本人の食生活が豊かになる一方、肥満傾向の増加、そして運動能力の低下という問題点が浮かび上がっている。将来を担う子どもたちの健康な体をつくっていく上でも、これからの食のあり方を見直していく必要がある。
日本総合研究所 主任研究員 大澤信一

 2006.9.18 日本経済新聞