量子コンピューター「9000兆倍の破壊力」

参考:日本経済新聞 電子版 2017/8/3 6:30

 「巡回セールスマン問題」など数々の難問を一瞬で解き、性能はスーパーコンピューターの9000兆倍に──。夢の計算機「量子コンピューター」の研究が世界で急加速しています。米IBMと米グーグルなどの米国勢は試作機を公開。欧州連合や中国政府も研究開発に巨額を投じています。「用途は科学技術分野など限定的だろう」との考えは正しくありません。産業分野に応用できるアルゴリズムが突然見つかり、「明日にも企業が使えるようになる可能性がある」と専門家はみます。9000兆倍の破壊力を持つ新技術の今を追りました。
各社の量子コンピューター関連の発表。左上はグーグルの9量子ビットの試作機、右上はオランダの研究グループ「QuTech」に5000万ドル(約55億円)出資したインテル。左下は2017年3月に50量子ビット機の開発計画を発表し、5月に16量子ビット機をクラウドで公開したIBM。右下は2016年3月にシミュレーターを公開したマイクロソフト(写真:グーグル、IBM、マイクロソフト、QuTech)
各社の量子コンピューター関連の発表。左上はグーグルの9量子ビットの試作機、右上はオランダの研究グループ「QuTech」に5000万ドル(約55億円)出資したインテル。左下は2017年3月に50量子ビット機の開発計画を発表し、5月に16量子ビット機をクラウドで公開したIBM。右下は2016年3月にシミュレーターを公開したマイクロソフト(写真:グーグル、IBM、マイクロソフト、QuTech)
 
2017年5月、米IBMは17個の「量子ビット」を備えたプロセッサーを試作したと発表しました。同社初となる商用の量子コンピューター用プロセッサーの試作品となります。 IBMが量子コンピューターの商用化へ本気で取り組み始めました。ジニー・ロメッティCEO(最高経営責任者)は同年3月期の業績発表で「量子コンピューターなど新技術を提供し、企業の複雑なビジネス課題への取り組みを変革する」とコメントしました。 IBMは2016年5月、量子ビット5個からなる量子コンピューターを操作できるクラウドサービス「IBM Quantum Experience」を無償提供して話題を呼びました。公開から約1年で100カ国超の4万5000人が使い、約30万回の実験をこなしました。2017年5月には量子ビット数を16個に増やした量子コンピューターのベータ公開を始めました。 IBMが開発する量子コンピューターは「量子ゲート方式」と呼ばれるタイプです。「0」と「1」のビットを基に論理回路(論理ゲート)で演算するのは従来のコンピューターと同じです。通常のコンピューターが扱うビットは「0」か「1」のどちらか一方を表すのに対し、量子コンピューターは「0」と「1」を重ね合わせた状態が取れる量子ビットで演算します。 重ね合わせた状態を活用することで、膨大な組み合わせの計算を並列して実行できます。IBMが発表した17量子ビットであれば最大で2の17乗、13万1072通りの演算を1度に実行できます。

■米IT大手が続々と参入

今、IBMに続き量子ゲート方式の研究に乗り出す企業が相次いでいます。 ビッグプレイヤーの一社がグーグルです。人工知能(AI)の演算を高速化できるとみて開発を進めます。量子ゲート方式の権威として知られる米カリフォルニア大学サンタバーバラ校のジョン・マルティニス教授を研究グループに招き、スパコンの演算能力をはるかに超える量子コンピューターの実現を目指します。 米インテルは2015年9月にオランダの研究グループ「QuTech」に5000万ドル(約55億円)出資し、インテルの半導体微細加工技術を生かした量子コンピューターを開発します。 米マイクロソフトは「トポロジカル物質」と呼ばれる材料をプロセッサーに使った量子コンピューターを開発します。実機に先駆けて2016年3月、動作をシミュレートできるソフト「LIQUi|>(LIQUiD)」を公開しました。

■目指せ宇宙スケールの超越性

米IT(情報技術)企業が相次ぎ量子ゲート方式の開発競争に乗り出したのは、量子コンピューターでスーパーコンピューター(スパコン)をはるかにしのぐ演算能力を実現できる算段が立ったからです。 マルティニス教授は2016年6 月、分子の性質をシミュレーションする「量子シミュレーション」と呼ぶアルゴリズムであれば、50量子ビットの量子コンピューターでスパコンの性能をしのぐ「量子の超越性」を実証できると学会で発表しています。さらに同氏は2017年中にも49量子ビット機を実現するとしています。 スイス連邦工科大学の研究グループはスパコンを使ってシミュレーションをすると、その計算能力は45~49量子ビットの量子コンピューターと同等だと2017年4月に発表しました。50量子ビットの量子コンピューターが完成すれば、その計算能力はスパコンを上回ります。 「量子シミュレーションは厳密な誤り訂正が不要なアルゴリズムのため、1量子ビット増えるごとに計算能力が2倍になる」。量子コンピューターの理論に詳しい東京工業大学の西森秀稔教授はこう説明します。 IBMが公開している16量子ビットの量子コンピューターの計算能力は、スパコンの性能を47量子ビット相当として計算すると21億分の1程度になります。仮にスパコンの計算能力を人間の身長(1.5メートル)に見立てると、16量子ビット機の計算能力は炭素原子程度の大きさほどしかありません。 一方、グーグルの研究チームに参加するマルティニス教授は100量子ビット超の実現を目指します。IBM Researchの研究グループも2016年8月に100量子ビット機が近い将来に実現するとの論文を発表しています。「近い将来」を5年以内と仮定すれば、2021年までには100量子ビットを実現できます。計算能力は単純計算でスパコンの9000兆倍。人間の身長と比較すれば太陽系の半径にも相当し、“超越性”と言うにふさわしい飛躍です。

■“不安定”を長く保つ努力

量子の超越性を実証できるメドがたった背景には、技術上のブレークスルーがここ数年で相次いだことがあります。数十年にわたる基礎研究の積み重ねを経て、ようやく量子の超越性に手が届きそうな段階に行き着きました。 量子コンピューターは演算方法やプロセッサーの材料などによって複数の方式に分かれるものの、ブレークスルーが求められる項目は共通します。「0」と「1」の重ね合わせ状態を維持できる平均時間「コヒーレンス時間」を長くすることです。重ね合わせの状態は、すぐ別の状態に変わってしまう不安定な状態です。重ね合わせの状態を長く維持できるほど、より複雑で大規模な演算を実行できます。 加えて量子ゲート方式の場合、アルゴリズムによっては量子ビットを厳密に操作するためのブレークスルーが求められます。例えば間違った計算結果を修正する「誤り訂正」を使うアルゴリズムでは、量子ビットを99%以上の精度で操作する必要があります。誤り訂正の処理には多量の量子ビットを使うため、量子ビットを集積化する技術革新も必要です。

■相次ぐブレークスルー

グーグルとIBMが開発する量子コンピューターは、量子ゲート方式の中でも超伝導回路を流れる電流の向きで「0」と「1」を表現する「超伝導量子ビット型」と呼ばれます。
クリックで画像の拡大
企業が開発に取り組む量子コンピューターの種類
クリックで画像の拡大
企業が開発に取り組む量子コンピューターの種類
このタイプはコヒーレンス時間を長くしにくい弱点がありました。重ね合わせの状態は原子などナノメートル未満の世界では維持しやすい一方、1000倍以上大きい数マイクロメートルの回路で作る超伝導量子ビットは「影響を受ける範囲が広く不安定になりやすい」(1999年に初めて超伝導回路の量子ビットを作った東京大学の中村泰信教授)。一方で回路が大きいため「複数の量子ビットを操作して論理演算する回路は作りやすい」(同)。 超伝導量子ビットのブレークスルーは2012年、IBM Researchのグループがもたらしました。これまで2次元平面上に構成していた超伝導回路を3次元上に構造化したところ、コヒーレンス時間がそれまでの2~4倍に及ぶ100マイクロ秒まで伸びました。さらにコヒーレンス時間の延長で、量子ビット操作の精度も実用域まで高まりました。この技術革新があったからこそ、「量子コンピューターを開発できる見通しが立った」とIBM Researchのダリオ・ジル バイスプレジデントは話します。 量子ゲートの実現方式には超伝導量子ビット型のほか、電子のスピンの向きで「0」と「1」を表現する「スピン量子ビット型」があります。スピン量子ビットは超伝導量子ビットに比べて周囲からの影響を受けにくくなります。慶應義塾大学の伊藤公平教授が作成した同位体制御シリコンがブレークスルーとなり、これをもとに豪州の研究グループが2014年にコヒーレンス時間を1ミリ秒に伸ばしました。さらに横浜国立大学の小坂英男教授らはダイヤモンドを基板に使って、従来の1万倍となる10秒のコヒーレンス時間を達成しました。 量子ビットの操作精度については、東京大学の樽茶清悟教授の研究グループが2016年に99.6%、2017年に99.93%を達成した。樽茶教授は「スピン量子ビットを使った量子コンピューターは基礎研究が中心の段階から、集積化をしながら研究をするエンジニアリングの段階に入っている」とし、集積回路の製造技術を持つ企業に協力を呼びかけています。 スピン量子ビット型の弱点は、量子ビットのサイズが小さいため量子ビット同士を相互作用させる回路が作りにくいことです。スピン量子ビットは不純物原子や原子欠陥といった小さな領域に閉じ込めた電子を使うため、電子を閉じ込める場所が少しずれるだけで相互作用が大きく変わります。逆に言えば量子ビットを構成する材料を精度よく加工する技術があれば実現のメドが立ちます。

■産業的な貢献度は未知数

量子の超越性が目前に迫る量子コンピューターですが、「産業的な貢献があるかは、正直に言って分からない」(中村教授)。量子超越性を達成した量子コンピューターが扱う問題は「人類が初めて計算する問題であり、どんな使い道があるかが見えてくるのはこれから」(西森教授)です。 量子ゲート方式の計算能力はアルゴリズム次第です。IBMが自社の量子コンピューターをクラウドに公開したのも「研究者を増やして産業応用できるアルゴリズムの発明を促す狙いがありそうだ」(中村教授)。現在は小さな分子の性質をシミュレーションできるとして、薬の合成に使う計画があります。 アルゴリズムの発明は「前触れもなく突然に訪れる」。そう話す東京大学の小芦雅斗教授は、2014年に新たな量子暗号通信のアルゴリズムを発表した張本人。30年間議論もされなかった通信方法を「偶然見つけた」(小芦教授)といいます。新しいアルゴリズムが見つかれば、明日にも量子コンピューターが産業利用できるかもしれません。 (日経コンピュータ 広田望) [日経コンピュータ2017年6月22日号の記事を再構成]