1.私に影響した?先代の車歴

 

日本自動車DKWクラブ。大磯ロングビーチにてオフ会?
 
父とDKWユニオンむさし野の林の中
 
父のDKWアウトユニオンで
毎週末のどこでも!オートキャンプ。
3気筒2サイクルで白煙をあげながら
畑の中をつっぱしった。
 

オートキャンプのスナップ?
どこでも洗車。毎週洗車させられた。

 
DKWクラブのスナップ。左から2代目はヒルマン?
 
アウトユニオンと妹 40年前?1960?


2.運転上手になる方法?


18才イギリスに2ヶ月ジャッキースチュワートレーシングスクールヘ短期留学した時、
ロンドンでレンタルしたロータスセブンと



3.運命の出合いポルトガル牧師さんの乗ったオーバルワーゲン


ポルシェ356が買えない、 貧乏学生は、25万のバイト代でワーゲンの1954年のオーバルが走ってるのを発見! 都内を追っかけまわして、福島のポルトガル人牧師から売ってもらったのが、すぐにエンジンが壊れ、成城の小林
自動車で、手伝いをしながら、エンジンリビルト、エンジンの空冷フィンには、田んぼの土がいっぱい!カムギヤもぼろぼろでした。その後、すぐに岐阜でデフギヤが壊れる。当時、へたくそな運転でクラッシクな車には過酷だったのか?車仲間の安藤と菊池が東京から、レッカーしに来てくれた!
 
 

東京へレッカーの途中サービスエリアで
ナント東名をワイヤーロープでひっぱりながら帰った?

安藤と私、引っ張るのは安藤の兄貴のジープでした。岐阜の一番目のカミサンの
家の前。
 
レッカーラスト、もうすぐ東京です。
 

家に帰ると、新しいシャーシというか、フロアで、
12ボルトにしようと決意、やがて、
新しいエンジン、青山の島田洋書で、
ワーゲンの改造本を見つけ、小林さんや、
芝のカリフォルニアオートモーティブで習いながら、
改造を開始。
ラジェイターボキットを購入。

古いシャーシーの右側に
チラッと見えるのは12Vの68年式の
シャーシーについたミシュランVWXタイヤ?
VWはこの後バイバイポルシェにつづく



4.壊れたワーゲンの変わりに20万でみつけたエステート



当時高校のとき丸井でローンで買ったDUCKSのロングとライトニングボルトの板
これをつけて岐阜の山中?を走ってました。
足回りは、当時のストックカーレース用、エンジンはノーマルでトヨグライドオートマ。
 

20代に長くのったクラウンエステート
ヨコビラキ
これで岐阜まで通ったものでした。
ワーゲンの改造中に足としてよく走った
リヤゲートはバルサ材を自分で張り付け
バンパーなし
20歳代に足として長く乗りました。岐阜の当時の奥さんの実家に300回以上往復。
リヤドアは横開きのアメリカン風、
ウインドウも下にオートで下りる。
バンパーは重いのではずしたまま。
160
キロが最高速。

 
学生でありながら、事業を始め、
横浜山手に米軍用の家を借りて 住んで居た。
隣のアメリカンの子供たちと、車をいじってるところ、
いっしょに岐阜まで、連れて行ったことも。
家はリビングが40畳もあり、
1,2階にトイレ風呂があって、当時では大きな家だった。
近所は外人ばかり、玄関にDUCKSのロングボード。
ヨコハマの山手の家の前で。
これから、遠出のポーズ、サイドのシールはスキャットかな?
ホイールはクロモドラ。
ココは、六本木の裏、スター&ストライプの米軍のヘリポートの横のPXガレージで、
ここで、バイバイポルシェのペイントをした。当時小林氏が、ガレージを受け持ってた。
そう、板金のバンノウさんもここで知り合って、いろいろお世話になりました。
岐阜の山の中で屋根にはカーテレビのアンテナです。
このクラウンは足が固めて高く在って、タイヤもオールシーズン、
クロモドラのマグホイールで林道もすいすいでした。
今のアウディオールロードに似てる?
エンジン付きスケートボードの販売製造を始めて、東五反田に住んでた頃、屋根には、腹ばいに乗る、ニューマシーンを積んで、クラウンのルーフラック、当時は珍しかった?