初めの慣れ肝心
形と同時に心も

「おはようございます」――。あなたは、朝、同僚に声をかけるだろうか。日本のビジネス社会から毎日のあいさつが消え始めた。

「日本人が声を出さなくなった。社内ばかりか、パーティーや講演会など公的な場でも同じ。昔は『皆さん、こんにちは』と呼びかけると、聴衆も一斉に復唱したものだが、今や沈黙したままのことが多い。バブル経済が崩壊し日本人が自信を失ったからだろうか」

残念がるのは韓国最大の財閥の日本法人、日本サムスンの鄭剿セ社長だ。「約30年前、初赴任した時は『ちょっとしたあいさつの繰り返しこそが日本の強さの秘密』と感動した。日本人は声を交わすことで人とのかかわり方を常に確認し合い、強い組織と良好な取引関係を作っていた」

確かに、返事もしない大手銀行の窓口担当や大航空会社のチェックイン担当者が最近目立つ。「リストラが続きベテランの士気も規律も緩む一方。とても教育まで手が回らない」(大手行の中堅幹部)
もっとも、あいさつがよりよくなっている業界もある。ビルの清掃などを担当するメンテナンス業がその一つだ。大手のシービーエス(東京・千代田、西村日出穂社長)の近藤善文・常務執行役員は解説する。「バブル経済がはじけた後、競争が一気に激化した。『奇麗にすること』は当たり前で『マナー』の良否が受注を決める。組織の印象は社員より、(来客と頻繁に接する)清掃担当者の態度で決まることも多い」

清掃技術など同社の新入社員研修は7時間半。うち1時間半はマナー研修に当てる。
「技術は仕事をするうちに向上する。だが『あいさつ』だけは初めに慣れておかないと覚えない」(研修トレーナーの桜井恵子さん)

「恐れ入ります」など"7大あいさつ語"をお辞儀の角度とともに教える。ちなみに、軽く受け取られがちな「失礼しました」は禁止用語だ。「申し訳ございません」を使うべき、との判断だ。「特に重要なのは、なぜあいさつが大事かという動機付け。ちょっとした言葉が足らずトラブルになった例をじっくり説明する」(桜井さん)

東京都渋谷区と国分寺市で理美容専門学校を開く国際文化学園(平野徹理事長)。初めて訪れる人は驚く。すべての学生が「こんにちは」と見知らぬ人にも会釈する。「卒業者がみんな礼儀正しい」と、ほぼ100%の就職率を誇る。あいさつを特に重視するようになったのは、やはりバブル崩壊後だ。渋谷校の北本義則・副校長は説明する。「美容師も技術力だけでは生き残れない時代に入ると考えた」

ただ、特段の教育はしていない。「職員や生徒が日常的なあいさつを交わす雰囲気が重要。新入生も自然に習うようになる」むしろ、しゃちほこばってあいさつしがちな新入生には「気持ちをこめることが大事で、形にこだわるな」と教える。「マニュアルで強制すると、横を向きながら『ありがとうございました』となりかねない」

厳格な作法を誇った名門企業から礼儀が消え、サービス業など新興業界が存続をかけ、あいさつ運動に取り組む――。

実は、日本サムスンも1998年から翌年にかけマナー向上運動を実施した。朝礼時に10分間、あいさつなどの教育ビデオを放映。先生を招き、電話の応対から帰宅時の言葉まで全社員が勉強した。朝、エレベーターの前に幹部社員が立ち「おはようございます」と社員に呼びかけた。「日本の会社になり切ろう」と決意した韓国系の同社が、薄れる"日本の美風"を守る構図だ。
(編集委員 鈴置高史)

7大あいさつ用語

言葉
お辞儀の角度
おはようございます 15度
ありがとうございました 30度
かしこまりました 15度
申しわけございません 45度
おそれいります 15度
お待たせしました 30度
失礼いたします 15度

(月刊「ビルクリーニング」98年7月号「めざせ!あいさつの達人」から)
2003.12.13 日本経済新聞