White Family dental-site


最新の社会情勢レポート!!

a

セシウムの22%が沈着 東日本の陸地、 拡散分析。残りはどこ? 

セシウムの22%が沈着 東日本の陸地、拡散分析

 東京電力福島第1原発事故で放出された放射性物質は、東北だけでなく関東や甲信越など広範囲に拡散し、ヨウ素131の13%、セシウム137の22%が東日本の陸地に落ちたとの分析結果を、国立環境研究所(茨城県つくば市)の大原利真(おおはら・としまさ)・地域環境センター長らが25日までにまとめた。

 大原さんらは、大気汚染物質の拡散を予測するモデルを使い、3月11日の事故発生から3月下旬までに、放射性物質が東日本でどう拡散したかを分析した。

 放射性物質は風に乗って移動し風や雨の影響で地面に沈着。北は岩手や宮城、山形の各県から、南は関東を越え静岡県にも届き、新潟や長野、山梨の各県にも到達した。

 ヨウ素131の沈着は風の影響が大きく、セシウム137は風に加え雨とともに落下する。一部の地域で問題になっている局所的に放射線量が高い「ホットスポット」の出現は、雨の降り方などが影響したと考えられるという。東日本の陸地に沈着した以外の放射性物質は、大半が太平洋に落ちたとみられる。

 結果は米地球物理学連合の学会誌に掲載された。

2011年8月26日 提供:共同通信社

 

学校の毎時3・8マイクロ・シーベルト基準廃止、 毎時1マイクロへ 

学校の毎時3・8マイクロ・シーベルト基準廃止

政府は、学校での屋外活動を制限する放射線量としてきた毎時3・8マイクロ・シーベルトの基準を廃止し、今後は同1マイクロ・シーベルトを目安に校庭などの除染を進める方針を固めた。

 基準線量が高すぎるとの批判や、福島県内外で独自に除染が進められている状況を受けたもので、事実上これまでの「安全値」を見直す形だ。文部科学省は、子供が学校で受ける積算線量を年間1ミリ・シーベルト(1000マイクロ・シーベルト)以下に抑えることを目指し、除染費用を支援する。

 毎時1マイクロ・シーベルトは、年間の積算放射線量が1ミリ・シーベルトを超えない目安と位置づけ、屋外活動を制限する新たな基準とはしない方針。年間1ミリ・シーベルトは、平常時に自然界や医療行為以外で浴びる線量の限度とされる。



2011年8月24日 提供:読売新聞

 

放射能の影響を考察する

危険と安全を見極めよう 福島の子どもたちのために 
松本義久・東工大准教授  識者評論「放射線影響」

 放射線はどの線量まで安全か、どこからが危険か。3月11日以降、何度となくこう聞かれ、私は次のように答えてきた。「これまでに100ミリシーベルト以下の被ばくでは、人体への影響が確認されたことはありません」

 放射線の影響は大きく2種類に分けられる。

 一つは、白血球の減少、不妊などのように、ある一定以上の放射線量を被ばくした場合にのみ現れる影響である。「確定的影響」という。確定的影響は100ミリシーベルト以下ではまず起こらない。

 もう一つは、どんなに少量の放射線被ばくでも起こりうる、また、被ばく線量が増せば発生頻度が増加すると考えられている影響である。これが「確率的影響」で、がんと遺伝的影響が該当する。放射線発がんには「安全」と「危険」とを画する「しきい値」がない。

 実際にどんなに少量の放射線でもがんは増えるのか。広島・長崎の原爆被爆者の調査結果を見ると、100〜200ミリシーベルト以上では確かに放射線量とともにがんが増加している。しかし、それ以下の線量では、がんの増加は統計学的に確認できない。これらのことから、放射線発がんにも「しきい値」が存在すると考える研究者も少なくない。

 しかし、実際にはがんが増えていても、統計的なばらつきと、体質、環境、生活習慣などの個人差などに隠れて見えないという可能性も否定できない。そこで、国際放射線防護委員会(ICRP)などでは、慎重な立場をとって、がんにはしきい値がなく、発症する確率は線量に比例して増加するとしている。これを「直線しきい値なし(LNT)モデル」という。

 もう一つのポイントは「どれだけの時間で被ばくするか」である。放射線量が同じであっても、原爆のように一瞬で被ばくした場合に比べ、長期にわたって被ばくした場合では、影響が小さくなる。放射線によって生じたDNAの損傷の修復など、生体防御の仕組みが働くためである。

 野球の試合で打たれたヒットの数が同じでも、散発より集中打の方が失点が多いことに似ている。ICRPなどでは瞬時の被ばくの影響は長期被ばくの2倍としている。

 「100ミリシーベルト当たり、がんの確率が0・5%増加する」という解説をよく耳にするが、これは原爆被爆者らのデータを基に、LNTモデルを適用し、長期被ばくの影響は瞬時被ばくの半分として推算した結果である。現時点においてリスクをほぼ最大限に見積もったもので、「100ミリシーベルト当たり0・5%のがんの確率増加以上の悪影響は起こらない」と言った方が、より真実に近いだろう。

 文部科学省は先日、福島県内各地における空間放射線量実測値に基づく1年間の積算線量の推計値を発表した。警戒区域や計画的避難区域の一部を除けば、最高で20ミリシーベルト程度である。この線量では発がんリスクはあったとしても極めて小さい。

 20ミリシーベルト程度なら、生活上の留意や健康診断などによって、放射線の発がんリスクをゼロに近づけるか、あるいはマイナスにできる。十分に逆転可能なリスクである。

 福島県では子どもへの健康影響が懸念されている。これを防ぐには、除染による線量低減に加え、個人の被ばく線量把握とそれに基づく健康状態のフォローアップ、精神面のケアが必要である。

 避難や疎開などによる心身面の影響も無視できない。放射線の危険を正しく伝え、過剰に恐れることによる影響を防ぐことも、私たち放射線専門家の責務と考えている。

   ×   ×   

 まつもと・よし・ひさ 
70年佐賀県生まれ。東京大大学院理学系研究科博士課程修了。理学博士。
放射線生物学が専門。同大学院医学系研究科助手を経て06年より現職。



2011年8月23日 提供:共同通信社

 

放射線と人体被害、横浜で28日セミナー

かながわ遊ナビ:放射線と人体被害 横浜で28日セミナー /神奈川

 ◇がん専門医が解説

 がん専門医によるセミナー「放射線による人体被害」が28日、横浜市西区みなとみらいのクイーンズタワーB棟で開かれる。

 群馬県立がんセンター呼吸器外科部長などを務め、現在、杏林大医学部で講師を務める田中良太医師を迎え、放射線について分かりやすく解説し、日常生活の不安をできる限り払拭(ふっしょく)してもらう。

 B棟7階で13時半〜14時40分。参加無料。セミナー終了後、アンケートがある。
定員100人で申し込み先着順。
25日までに、エイアイジー・スター生命保険横浜支社(電話045・222・3851)に電話で申し込む。



2011年8月23日 提供:毎日新聞社

 

「死ぬ、この世の終わりだと思った」と職員
双葉厚生病院院長・重富秀一氏に聞く◆Vol.3

東日本大震災(被災地の現場から)
避難中、高校グランドで原発の水素爆発を目撃

 

――中断後、避難を再開した。

実際に避難を開始したのは午前8時30分、約1時間後に中断、再開したのは12時頃です。 その間、我々は病院の中で待機していました。警察官も疲れた様子でしたが。自衛隊 の方も大変だったと思います。なお、この間にも、帝王切開手術で今度は男児が誕生しています。

 再開後、点呼をやり直し、バス1台に必ず職員1人を付け、容態が悪い人がいる場合には医師が同乗しました。川俣方面にそれぞれ向かいました。

ベント中、屋内退避を命じられ、警察官も疲れた様子だった
(右、3月12日午前11時すぎ)、
避難再開後(左、3月12日午後0時30分頃)

 

(写真提供:双葉厚生病院) 。

 ――行き先は、一緒だった。

 結果的には、一緒ではなかったのです。でも出発時点では、「一緒の場所に、行っ てくれる」と信じていました。自力で動けない40人以外の避難は、3月12日の午後1時すぎくらいには完了、警察官と自衛隊は退去しました。

重症・要介助の患者さんなど40人については、残りの職員とともに「少し落ち着く まで待とう」と考えていました。

――皆さんは、すぐに戻って来ることができる、という認識で避難されたのでしょ うか。

 「警察が言うから、避難しようか」と。ぐずぐずとすねていても仕方がない。ですから、重症患者さんについては避難させるまでもないと考えていました。私たちは周 囲の状況をあまりつかめていなかった。後から知ったのですが、その頃、既に「炉心 溶融」などが起きていた。それを知っていたら、私たちもすぐに避難していたはずです。

 双葉町は津波の被害も受けていたこともあり、その頃までには住民も避難、周囲は 静かになっていた。病院の中だけに人がいる状態でした。どうもおかしい、と思って いましたが、本当に、この状況が分かったのは、県の災害対策本部にいた県立医大の教授からの電話です。「そんなに悠長なことをしている状況ではない」と言われたのです。

県の災害対策本部にいた、県立医大の教授とようやく電話がつながり、事態の 深刻さを知ったという。「炉心溶融などが起きていると知ったら、私たちもすぐに避 難していたはず」(重富秀一氏)。

 ――それまでも県の災害対策本部には電話をかけていたのでしょうか。

 はい、何度もかけていた。つながったり、つながらなかったり。つながる相手が、 担当の事務職員だったり、単に電話を受ける人だったり、その都度、違う。それでも、 「患者さんを避難させろ、というのであれば、救急車やドクターヘリが必要だ」と要請していた。

 重症の患者さんを40人搬送するのであれば、救急車は20台必要。当院にあるはずは ありません。ドクターヘリを使う場合でも、ヘリが到着できる近くの場所まで、どう やって患者さんたちを運ぶのか。やはり救急車が必要です。しかし、県は「救急車の 都合が付きません」と。そのやり取りを繰り返していた。埒が明かなかった。県立医 大の教授にも、何度も電話したが、本人とは話せなかったので、「重富から、電話が あったことを伝えてくれないか」と伝言を残しておいたのです。

 そしたら先生から電話が来たのです。先生も30回も、40回もかけたみたいで、それ でようやくつながった。「いったい、何をやっているのですか」と。私は、「全然、状況が分からない」と答えたところ、「今、そこ(双葉厚生病院)にいる状況ではない」と説明してくれた。それでようやく災害救助ということで、自衛隊のヘリコプターで脱出することになり、「ヘリコプターが到着する双葉高校のグランドに移動を」と 指示をもらったのです。

 それまでは、通常の避難だった。電話がつながった以降は、緊急脱出。だから意味合いが全く違ってきた。要するに、今度は自分の意思は無関係。だからもう後は指示に従って動くしかなかった。患者さんに負担がかかるとしても、自衛隊の車で運び、ヘリコプターに載せなければいけない。

 この指示がなければ、全員退去は決断できませんでした。40人もの重症患者がおり、 危なくて避難はできなかった。

寝たきりの患者は、4人で自衛隊の車まで運んだ
(左、3月12日午後3時すぎ)。
国道114号線は、双葉町から避難する車で大渋滞だった
(右、3月12日午後4時すぎ)


(写真提供:双葉厚生病院)。

 ――レスピレーターをつけている患者さんもいた。

 1人だけですが、レスピレーターも一緒に運び、ヘリコプターに乗せました。この時点で職員は56人残っていたので、助かりました。マットの上に患者さんを載せ、四隅を持ち、4人で患者さんを持ち上げ、病院の玄関まで運び、自衛隊の車に乗せる。 双葉高校で下ろし、ヘリコプターにまた乗せる。いったい病院と高校を何往復したこ とでしょうか。

 ――電話の際、医大の教授は、双葉厚生病院の状況をどの程度、把握していたのか。  我々が病院にいるとは思っていなかったのでは。何で今頃、と思いつつも、「つな いでくれ」と私が言っていたので、折り返し電話をくれたのかもしれません。教授からは、「原発の状況は、相当危ないようだ」などと聞いた。  全員退去を決め、自衛隊のヘリコプターの救援を待つため、双葉高校のグラウンドに移動を始めたのは、午後2時くらいだったと思います。何往復もしているその時に、 第1原発が水素爆発したのです。午後3時36分です。

 その時、避難誘導していた職員と患者の半分ぐらいは、双葉高校のグランドにいた ので、爆発を目撃しています。爆音はものすごかった。「死ぬかと思った」、「この世の終わりだと思った」と言った職員もいました。1号機爆発の時は、3号機爆発時よ りは放射能漏れは少なかったですが、建物の断熱材などか、白い粉がパラパラと降っ てきた。それを触った人もいました。幸い、後に行った放射線のスクリーニング検査 では、問題はありませんでした。

 私は病院の中にいましたが、「ドカン」とものすごい音がした。初めは、プロパンガスが爆発したのかとも思ったけれど、窓の外を見たら、白煙が上がっていた。

 爆発後は、避難を中断、屋内退避をした。その後、再開し、最終的に全員が双葉高 校のグラウンドに移動した時には、午後5時くらいになっていた。既に周囲は薄暗くなっていました。

 ヘリコプターにはストレッチャーが4台入ります。最後の方は、私と副院長、もう一人の先生が残っており、重症な患者さんが乗るヘリコプターについては1人ずつ同 乗しました。副院長は二本松へ、私ともう一人の先生は仙台に搬送されました。最後に残ったのは、それほど危なくはないものの、自力で動けない患者さん16人と看護部 長などです。「先生、いなくても大丈夫です」とのことで、看護部長に残ってもらったのです。ところが、その後、来るはずのヘリコプターが到着しなかった。

 ――それはなぜですか。

 理由は分かりませんが、職員9人と患者さんが16人、ほかに地元の老人保健施設の入所者などが取り残された。自衛隊の方も一緒に、双葉高校に1晩残る事態となり、 翌朝13日のヘリコプターで避難しました。
聞き手・まとめ:橋本佳子(m3.com編集長)



2011年8月19日 提供:m3.com

 

東日本大震災(被災地の現場から)突然、 病院に警察官、「逃げろ」と

東日本大震災(被災地の現場から) 突然、病院に警察官、「逃げろ」と指示
双葉厚生病院院長・重富秀一氏に聞く
◆Vol.2 行政などからの連絡なく、ニュースで避難決断

――先ほど、警察官が入ってきて、「逃げろ」と言ったと。

 後から思い出しながら記録したので、多少時間が違っているかもしれませんが、3 月12日の午前6時に対策会議を開いた後、6時30分くらいだと思います。いきなり、警 察官が病院に入ってきたのです。

 「玄関から誰かが入ってきた」となり、何だ、となった。放射線防護服を着ていた ので、「何、仰々しいことやっているんだ」、「こんな派手な格好しなくてもいいじゃ ないか」とも思った。自衛隊の人も来たのですが、普通の制服姿でした。

 警察官とは、1時間ほど、もめました。「放射性物質が飛散しても、収まるまで病 院の中にいればいいでしょう。なぜ逃げなければならないのか」と。入院患者さんも 多数いましたし。

 ――当時の入院者さんは何人くらいですか。

 県立大野病院との統合直前だったので、入院患者さんを減らしており、通常よりは 少なかった。当院は260床ですが、136人でした。一般病棟(内科、外科、眼科)に70 人、産婦人科病棟に10人、神経精神科病棟に56人です。それでも136人を動かすのは 容易ではない。バスは来ていたのですが、救急車は来ないし、ドクターヘリもない。 職員からは、「患者さんを動かして、何かあったら、院長は責任を取れるのですか」 とも言われ、さすがに困った。

 ――テレビなどで、原発の状況を把握されていなかった。

 明け方(3月12日の朝)、少しゆとりができた時に、テレビを玄関の方に移動させ て観たりはしていました。その時に、「何か気持ち悪いニュース」をやっていたよう な気がします。入れ替わり職員が観ており、「何か変だな」と。

 ――しかし、避難しなければいけな いという危機感はなかった。

 なかったです。後から調べると、3月11日午後8時50分の時点で、原発から半径2km 圏内に、午後9時23分には半径3km圏内に、それぞれ避難指示が出ていましたが、その 情報を聞いた記憶もありません。

白い防護服を着て病院に来た警察官(左、3月12日午前6時40分頃)、自衛隊も 多数救助に訪れた(右、3月12日午前7時頃)(写真提供:双葉厚生病院)。

 ――県などから情報は入らなかったのでしょうか。オフサイトセンターとか。

 オフサイトセンターで本来、連絡をするべき人は皆、いなくなってしまったのでは。 後から聞くと、県立大野病院では、その時点で既に避難が始まっていました。院長は こちらに連絡をしようと思ったそうですが、電話が通じなかった。少なくても、双葉 町役場からの直接の連絡はなかった。役場からは歩ける距離なのですが……。その頃 は、住民の避難始まっていたんですね。また防災無線は鳴っていたそうですが、聞こ えない。警察官が来てくれたということは、県の指示なのでしょうが。結局、情報源 はテレビのニュースだけでした。

 警察官とやり合っても、なぜ逃げなければならないのか、きちんとした説明はあり ませんでした。結論から言えば、午前7時すぎ、テレビで、「内閣総理大臣が、半 径10km圏内の住民の避難を指示した」というニュースが流れた。「総理大臣が言うの であれば、言うことを聞かなければならない」ということで、職員に避難することを 納得してもらった。それまでは、職員の誰も、「逃げましょう」とは言わなかった。 だから、「逃げよう」と私が説得するのが大変だった。

 ――テレビのニュースが最終的な決断を促した。

 電話は通じたり、通じなかったり、という状況でした。最終的に避難を決定したの は、午前7時30分頃です。

 ――警察とは1時間くらいやり取りして、避難を決断した。

 その時点でも、すべての入院患者を避難させることは考えていなかった。先ほども 言いましたが、救急車もドクターヘリもなかったので。自力で動ける人はいいでしょ う、ということで、精神科の患者さんと、一般病棟の何人かの避難準備を始めました。 自力で動けなかった40人を残し、96人に警察の指示に従い、バスや自衛隊で避難して もらいました。食料と医薬品、そのほか必要なものと一緒に。

まず自力で歩くことができる精神科の患者から避難(左、3月12日午前8時30分 頃)。
第一原発のベントに伴い、避難を一時中断し、屋内退避(右、3月12日午前9 時30分頃)


(写真提供:双葉厚生病院)。

――職員も一緒にバスに乗ったのでしょうか。

 その点が後で少し問題になったのですが、96人は連続して避難でき、行き先も一緒 だと思っていました。

 ――出発する時には行き先は分かっていたのでしょうか。

 最初は国道288号線を越えて、川内村の方に、という話でした。しかし、途中から、 国道114号線で川俣町の方へと話が変わった。川俣町に行くことは出発前に分かって いたので、「行き先が一緒なら大丈夫だろう」ということで、最初の2台のバスには、 ほとんど問題がないと思われる患者さんを乗せて、職員は乗らずに出発した。しかし、 避難を始めたら、すぐに「屋内に避難してください」と言われた。

 それは、結局、原発でベントをやるためだったと思うのですが。結果的には最初 の2台のバスだけが行ってしまい、職員が付いていけなかった。それでも、すぐ(ベ ントは)終わるだろうし、いずれ後から行くのだから、と思い直しました。しかし、 結果的には3時間も避難を中断せざるを得ず、電話も通じなくなった。

 挙げ句、最初の2台のバスに乗った患者さんの何人かが、途中でバスから降ろされ てしまった。半径10kmを超えたところで。理由は分からないですが。「オンフール双 葉」という特別養護老人ホームです。後から所在確認はできたのですが、当初はもの すごく心配しました。
聞き手・まとめ:橋本佳子(m3.com編集長)



2011年8月16日 提供:m3.com

 

善意のすれ違い 香山リカのココロの万華鏡

香山リカのココロの万華鏡:善意のすれ違い /東京

 大震災以降、私たちはさまざまな「善意」を目にしてきたが、同時に「善意のすれ違い」に傷ついた人も多い。

 診察室でもときどき、こういった話を耳にする。「九州の夫の実家から“部屋を用意したから子どもを連れて避難してきなさい”と言われたのですが、そんなに簡単に移れませんよね」「被災地に行ったので魚介類を友人に送ろうとしたら、“悪いけどそっちのものは”と断られた」。誰にも悪気はない。だからこそ、相手を恨むこともできずに余計に傷つくのだ。

 「京都五山送り火」の問題だってそうだろう。被災した松を伝統の送り火に、と当初、計画した人にも、それに応じて松を薪として提供した人にも、「子どもへの影響が心配」と声を上げた人にも、誰にも悪意などあるわけはない。それなのに、結果的にはその気持ちが行き違い、二転三転した後に計画は中止となって、みんながとても後味の悪い思いをすることになった。

 私たちの日常生活でも、相手によかれと思ってしたことが悪い結果を招くことがある。そうなると、意地悪でそうしたときより何倍も、相手も自分も傷ついてしまう。「どうしてうまくいかなかったんだろう?」「あの人が親切からこうしたのはわかるんだけど、でも許せない」と、いつまでも引きずってしまう場合もある。

 こういうときは、ものごとをあまり深く考えずに、「もとは善意だったんだ」というところにだけ目を向けるようにするしかないだろう。「私のために、と思ってくれたことは事実なんだ」「何かしてあげたい、という自分の気持ちにウソはなかった」と、いつも基本に立ち返る。

 そして、善意の行き違いが起きた同士は、なるべくそこで終わりにしないで、「次はこうしてね」といつか関係修復の機会を作るほうがよいと思う。人間関係で気まずいことが起きてしまった場合は、新しい良い経験をすることで上書きして消すのが、いちばん効果的だからだ。ただ、それには時間をかける必要がある。

 京都市と岩手県陸前高田市も、いつか「こうしてください」「はい、ぜひともそうさせて」と善意の思いがかみ合って、お互い納得いく形で何かができればいいのだが。「もう二度とかかわりたくない」ではなくて、ぜひ「今度こそ」とあきらめずにかかわりを続けてほしい。

〔都内版〕

 

2011年8月16日 提供:毎日新聞社

いわて健康塾】健康は自分でデザイン

日野原医師が特別講演

 「いわて健康塾特別講演会」が14日、盛岡市のホテルメトロポリタン盛岡ニューウイングで開かれた。今年100歳を迎える現役医師の日野原重明・聖路加国際病院理事長が、「『100歳は次のスタートライン』-音楽のある人生と健康である幸せ」と題して講演。東日本大震災からの復興について「被災してあきらめるのではなく、自分が運命をデザインする心構えを持って」と呼びかけた。長生きするための秘訣(ひけつ)や音楽療法も披露。約900人の聴衆は熱心に聞き入った。

 講演で日野原さんはまず、自身が5月に行った被災地の宮城県南三陸町について説明した。屋上まで逃げられなかった病院の患者やスタッフが多数死亡した状況を語った。病院入り口に表示されていた過去の津波が到達した高さについて、「こうした情報があったために、安心してしまったのでは」と指摘した。

 その一方、普代村の和村幸得元村長(故人)が、津波の脅威を予見して巨大堤防を作ってほしいと国に掛け合い、高さ15メートルを超える防潮堤・水門を完成させた例を紹介。「普代村は今回、津波の人的被害を最小限にとどめた。リーダーシップのもとに自治体が団結すれば、今後どんなことがあっても大丈夫」と話した。

 また、「被災は運命だった」とあきらめてしまう人がいることを挙げ、「決められた運命があると考えないようにしてほしい」と呼びかけた。友人や先輩、師などとの新しい出会いによって環境は変わり、環境によって人生も変わる。「同じ人と1時間後に同じ話で再び盛り上がるのではなく、例えばこの講演会で知り合った人と新しい環境を作ればいい」とした。

 自分が運命をデザインするという心構えで何事にも臨み、それを行動に移すことが必要だと説いた。逆境でも、ヨットのように逆風を利用しながら舵(かじ)を切り、いずれはゴールに達することができるとして、どんな状況でも勇気を持って生き、行動する大切さを強調した。

 そして「再建」についての概念を説明。「苦しいときに再建しようという気持ちを持つこと自体、すでに再建が始まっている。岩手の人は今回の受難から、ポジティブに展開してほしい。国民全体が日本の大きな問題として考え、どの国にも負けないような立派な、命を愛する平和な国にしたい」と述べた。

 このほか、日野原さんは、長生きするためには、何を食べてどのように運動し、どう働き休むか、作戦を立てなければいけないとした。心の癒やしには音楽療法を勧めた。音楽は言葉で伝わらない感情も伝えられるコミュニケーション。実際に緊張緩和や鎮静や睡眠のほか、士気を高めたり怒りや不安を解消したりする効果もあるという。

 講演後、日野原さんは「岩手はとても素直な人が多いと感じた。楽しそうに聞いてもらえて本当によかった」と笑顔で会場を後にした。



2011年8月16日 提供:読売新聞

第二次食育推進基本計画がスタート

歯科保健と食育…

昭和大学歯学部口腔衛生学教室教授 
向井 美惠さん

東京医科歯科大学歯学部助手を経て、昭和大学歯学部教授に就任。2007年より内閣府食育推進会議専門委員、2008年より昭和大学口腔ケアセンター長を兼任。著書に『幼児の食生活?その基本と実践』(日本小児医事出版)など。


今年の4月、第二次食育推進基本計画がスタートしました。その中の11ある目標の中の1つが「よく噛んで味わって食べるなどの食べ方に関心のある国民の割合の増加」です。このような意識が、健やかで豊かな生活につながるという考え方です。

 具体的にすすめているのは、五感で味わう食べ方。嗅覚、味覚、視覚、触覚、聴覚が適度なバランスで満たされると、おいしく味わって食べられます。

まずは料理の盛り付けなどで視覚を満たします。次に、よく噛んで食べ物を舌の上で何度も移動させ、存分に味覚を楽しみます。このとき咀嚼(そしゃく)された食物の一部は、すでに喉の奥、食道付近まで流れています。

舌で感じる食物の固さ、柔らかさ、飲み込んだときの感触、すべてが触覚です。これらを十分に感じるために、一口で30回噛む「噛ミング30(カミングサンマル)」が推奨されています。

 嗅覚は鼻から感じる香りだけでなく、「戻り香」を楽しむこともポイント。前述の通り、食物は咀嚼している途中で一部が喉まで流れていますが、そこから気道を通じて鼻に香ります。これが戻り香です。味わいと戻り香を一緒に感じ、私たちは風味として認識しています。

 最後は聴覚です。これは食物の咀嚼音を楽しむもの。空気を伝わる音ではなく、骨を伝わってくる骨伝導音なので、通常は本人にしか聞こえません。このように食物は、五感で味わうことで、体だけでなく、心にも満足を与える栄養となるのです。

飲み込むとき、危険な食物を知る

 食べ方は、安全に食べるという面でも重要です。近年食物を喉に詰まらせ、窒息する事故が増えています。平成18年には4407人が亡くなり、8割以上が65歳以上の高齢者でした。年齢とともに飲み込む力が落ちるため、食べるときには注意が必要です。

 たとえばお餅を詰まらせる事故が多いのですが、データによるとお餅は口の中に入れたときより、噛んで飲み込むときのほうが倍以上固くなることが分かっています。

また、ほうれん草などの葉もの野菜も、固さや大きさ、粘着度がわかりづらく、実は危険な食物です。事故を防止するために、このような食物の危険性を学ぶことが大切です。

食べるときは、丸飲みせず、前歯でかみ切ること。これで食品の特性が解りますし、一口の量を加減できます。そしてやはり、しっかり噛むことです。しっかり噛むためには口の健康が重要です。

 口は健康の入口、命の入口です。歯周病を予防し、歯が上下よく噛める状態にする。五感をいつも感じられるように口の健康を保ち、食を楽しむことで、生活のクオリティを向上していきましょう。



2011年7月28日 提供:読売新聞

 

子どもの被ばく年5ミリシーベルトに

福島第1原発事故による子どもの被ばくに関する政府対応を批判し、内閣官房参与を辞任した小佐古敏荘(こさこ・としそう)東大教授が20日、小中学校などの被ばく線量の基準は年間5ミリシーベルトを目安にするべきだとする案を発表した。

 衆院文部科学委員長の田中真紀子氏が小佐古氏を招いて開いた勉強会後に記者会見して明らかにした。田中氏は、小佐古氏を委員会に参考人招致して意見を聴く方針。

 文部科学省は、福島県の小中学校などで年間被ばく線量換算で20ミリシーベルトを超えないように、毎時3・8マイクロシーベルトと屋外活動制限の基準を設定。ほかに年1ミリシーベルト以下の目標値も示している。

 小佐古氏は「昨年原発で働いた作業員でも20ミリシーベルトを超えた人はおらず、子どもに要求するには異様に高い数値だ」と批判。国際放射線防護委員会(ICRP)の長期間にわたる公衆の被ばくについての基準を参考にすると、子どもの被ばく線量の基準は毎時0・6マイクロシーベルト、年間で5ミリシーベルトとするのが妥当とした。

 小佐古氏は「基準は一律である必要はなく、学校や自治体が協議し、それぞれの地域の事情に応じて決めることが重要だ」と指摘した。



2011年7月21日 提供:共同通信社

 

前のページへ最新情報