「ワクチン・パスポート」のアイデアはどこまで現実的か?

参考:MIT Technology Review 2021.01.08

新型コロナウイルスのワクチン接種を証明する「ワクチン・パスポート」というアイデアが世界各国で提案されています。ですが、医療・技術の両面から実現にはハードルが多いです。

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミック(世界的な流行)が始まった当初はとても不可能だと思われていたことが、現実となっています。ワクチンが、記録的な早さで完成したのです。新型コロナウイルス感染症のワクチンは、死と恐怖の影に覆われていた休暇シーズンに希望をもたらしました。

ですが、当局がこの大規模なワクチン・キャンペーンの詳細を練る一方で、市民は今も基本的な疑問を抱き続けています。それは「誰がワクチンの接種を受けられるのか」「ワクチンが接種済みかどうかをどう周知するのか」「職場や学校、政府機関の入り口でワクチン接種の記録提示を求められることはあるのか」という疑問です。

アナログまたはデジタルのツールで、ワクチンが接種済みであることを証明する「ワクチン証明書」や「免疫パスポート」を知っている方もいるでしょう。それらを通常の生活に戻る手段として支持する専門家もいますが、プライバシーのリスクや差別・悪用の可能性について警鐘を鳴らす声も聞かれます。

それらの議論はまだ推測の域を出ませんが、プライバシーや検証、倫理的な利用など基本的な問題があることは、ワクチンに限った話ではありません。政府や企業は、誰が何をできるかの検証のために、新型コロナウイルス感染症に関する記録をすでに日常的に利用しています。現時点で分かっている点について見ていきましょう。

ワクチンの接種記録自体は珍しくはないが、新しい利用方法がある

ワクチン接種の証明が必要なことについては、特に珍しいことではありません。いくつかの国では、入国手続きの前に黄熱病ワクチンの接種証明が必要ですし、義務付けられている予防接種を受けていなければ入学できない学校も多いです。国民のワクチン接種状況を政府が追跡するのも、よくあることです。世界各地の国および地方自治体は名簿を保有し、医師が接種記録を送っています。

ですが、今回の接種証明の利用範囲拡大を巡っては、舞台裏で多くのことが起きています。政府や航空会社、雇用主、大学など数多くのグループが、健康記録を証明する方法や証明が必要な理由について激しく議論しているのです。

議論の中で飛び交う言葉の中には、「ワクチン・パスポート」といった紛らわしい用語もあります。市民の記録が、実際のパスポートのように機能する場面も考えられるでしょう。例えば、新規入国の際に到着先の空港でスマホを取り出し、接種記録や検査の陰性結果のデジタル記録をスキャンする場合などです。それらの記録は、社員証のような使い方もできますし、飲食店やバー、ショッピングモールへの入場パスとしても使えます。

ワクチン・パスポートを推進する側は、デジタル形式の健康証明があれば「日常」を取り戻しやすくなると主張しています。しかし、こうした新しいアイデアを実現するには、医療と技術の両面で多くのハードルが存在します。

免疫は安全性の証明ではない

いくつかのワクチンは新型コロナウイルス感染症の症状を防ぐ効果が高いでしょうが、ウイルスの感染や拡散を無症状で抑制できるかどうかは不明です。オックスフォード大学とアストラゼネカが開発しているワクチンの治験では、無症状のウイルス保有者からの感染を抑える効果が示唆されましたが、ファイザーとモデルナの治験では、無症状の治験参加者については定期的なウイルス検査を実施しませんでした。

ワクチン接種によって、他人への新型コロナウイルスの感染を防げるかどうかや、免疫がどれほど続くのかの決定的な証明にはさらなるデータが必要です。また、あるワクチンで証明されたことが、別のワクチンには当てはまらない可能性も考慮しなくてはなりません。

こういった重要な情報が含まれていなければ、接種証明書は単に特定の日にワクチン接種したことを証明することしかできません。ウイルスを持っていないことや、感染する可能性がないことの証明にはならないのです。検査で陰性であれば自分が感染していないことを示す証拠にはなります。ただし検査は完璧ではないため、できる限り感染拡大を抑制するための公衆衛生の指針に従わなくてはならないことに変わりはありません。

デジタル記録があればデマに対抗できる

偽の検査結果を提供する闇市場がすでに活況を呈しており、紙の記録の信頼性が低下し、改ざんできないデジタル記録の需要が高まっています。

多くの政府や航空会社などの企業が、「健康パス」アプリの構築を試みたり検討しています。システムに参加する検査機関や医療機関に対して、ユーザーが認証済みの検査結果などのデータをアプリに直接送るよう依頼できるもので、理屈としては証明の懸念を回避できます。

この分野には、IBMやコモンズ・プロジェクト(Commons Project)、コビッド・クレデンシャル・イニシアティブ(Covid Credentials Initiative)など多数の企業や団体が参入しています。これらの企業・団体は、異なるアプローチで健康パスの問題に取り組んでいますが、最終的には同じ目標を追求しています。個人情報を保護しながら、健康情報を共有できるようにすることです。ですが現状は、迅速で広範な解決策として使える状況にはほど遠いです。

システム連携は非常に難易度が高い

健康パスを手掛けるメーカーは、今のところおおむね検査結果に焦点を絞っていますが、仮にすべてのシステムが連携できれば、これらのテクノロジーはどれでもワクチンの接種記録にも適用できる可能性があります。

とはいえ、それは大手検査会社数社と契約を結ぶよりもかなり大きな挑戦となります。国境を超えてシステムを連携させようとすれば、異なる言語やデータベース、プライバシー法の組み合わせをうまく調整しなくてはなりません。国民保健サービス(NHS)でワクチン接種者のデータベースを維持している英国ですら、政府は「ワクチン・パスポート」のアイデアを保留しています。

患者のデータが何万もの医療機関に散らばっている米国では、全国共通のワクチン証明書はほぼ不可能でしょう。相互運用可能なデジタル世界の標準のことは忘れた方がいいです。米国の医師の多くは、いまだにファックスで記録を送信しているのだから。接種データの大部分は州や地方の名簿に保管されていますが、それらのデータをデジタル認証に使用しようとすれば、法律と技術の両面で障害に直面する可能性があります。

万人に有効な解決策はない

これまで述べてきたようなツールが構築されたとしても、接種状況に基づいて普段の行動を制限しようとすれば、倫理面や法律面で真剣に検討すべき事柄が生じます。ワクチン接種を義務付けている国がない現状では、接種状況によって国民を選別するのは難しいです。ワクチン接種の資格があっても、例えば妊婦や深刻なアレルギーの患者などは、データがさらに集まるまで接種を控えようとするケースが多数見られます。

他方で、スマホで医療記録を扱えない人々や扱いたくない人々もいます。高齢者やホームレス、不法滞在者など、パンデミックの影響を一番被った人々が特に当てはまるでしょう。裕福な国ですら直面している課題を考えると、世界中のあらゆる予防接種診療所がワクチン証明書アプリのQRコードを発行している状況は想像しづらいです。

どのみち、日常に戻るにはまだ時間がかかる

「日常」に戻るためのワクチン証明書などの証明手段の利用について、個人や企業がどれほど熱意を持っていても、ハイテクを使った解決策に懐疑的になる理由はたくさんあります。ワクチン証明書のために必要な、デジタルやアナログのすべてのインフラが連携できたとしても、予防接種によって周囲の人を安全に保てるかかどうかは分かりません。

今この瞬間、私たちの世界には確かな進展が1つあります。それは「ワクチンが驚異的なスピードで実現した」ということです。ワクチンが入った容器が今、飛行機やトラックに積み込まれ、世界中で待ち望む人たちに届けられています。私たちはそれを待つのみです。

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